新・じゃのめ見聞録  No.11

八重は「幕末のジャンヌ・ダルク」なのか

2013.1.7


八重本の帯に「幕末のジャンヌ・ダルク」とうたっている本がたくさんあります。NHK出版の『大河ドラマ 歴史ハンドブック 八重の桜』も「ドキュメント 八重の生涯」となっていて「第一部 幕末のジャンヌ・ダルク」となっています。誰がいつから言い出したのか知りませんが、女が男の先頭に立って戦ったというようなイメージだけをとらえて、八重を「幕末のジャンヌ・ダルク」とみなすことが、何の検証もされないままに、当たり前のように使われているのを見るのは、恥ずかしいことです。ただちょっとしたかっこよさのために使われているのだとしたら、それは八重の理解にとっても不自然だし、ジャンヌ・ダルクの理解にとっても迷惑なことになるからです。

ジャンヌ・ダルクについての本はたくさん出ています。貴重な裁判記録も翻訳で読むことができます。そこに見えるジャンヌ・ダルクは、今ブームになっている会津の八重とほとんど重なるところがありません。エンターテインメントというか、大衆娯楽としての映画やドラマのキャッチフレーズに「●●のジャンヌ・ダルク」という言い回しが使われるのは、使ったもん勝ちでしょうが、研究本のようなものまで、こういう宣伝文句が使われるのはほんと恥ずかしいもんです。関心のある方は、必ず自分で調べる必要があるでしょう。

そもそもジャンヌダルクの生涯は、次のような時代のものでした。

 1412年 フランスの東北部の田舎の村に産まれる。(日本では室町時代)
       フランスの北部はイギリスの支配下にあった。
 1425年 13歳の頃「フランス国王を救いに行け」という「神の声」を聴く。
 1429年 17歳。2月、フランス国王に会いに行く。4月、戦闘司令官として認められ、甲冑に
       身を固めオルレアンに出陣。5月、オルレアンをイギリスから奪還する。
 1430年 18歳。5月、コンピエーニュで城に退却中に城門を閉ざされ、敵に捕まる(味方の
       裏切り説が多い)。
 1431年 19歳。ルーアンで裁判が始まる。1月から3月まで予備審理、5月まで普通審理、
       5月28、29日異端審問を受け、30日火刑に処せられる。

その後、フランス王はイギリス軍を追い詰め、フランス全土をとりもどすことになる。

 この裁判の審理には、約40人の陪席判事が出席し、その中には大学関係者、修道士、教会参事会員など、のべ130人が関わったとされています。裁判の経過は、この時代にしては克明に記録され、その中でのジャンヌ・ダルクの受け答えは堂々としたものとして記録されています。
なかでも甲冑に身を包んで戦闘に参加したことについて、裁判の中で「敵に突撃する際、私は自分の手に旗を持ち、人を殺さないようにしました。私は誰も殺していません。」と答えています。それが本当だったのかどうかはわかりませんが、もしそうだったのだとしたら、八重本の中で「八重のスペンサー銃の腕前は百発百中だった」などと書いている姿とは似ても似つかぬものになっているのではないでしょうか。比較するのも、おかしな事なのですが、しかしそれでも、ジャンヌ・ダルクと八重に「似ている」ところが感じられるところもあると思います。それは、「祖国」が危機にされされたとき、身を挺して戦ったものがいたということを知るというところです。ジャンヌ・ダルク伝が聖者伝説化することに批判的だったジュール・ミシュレは、それでも『フランス史』のジャンヌ・ダルクの章で次のように書いていました。(彼は晩年、ルイ・ナポレオン帝政に反対し教授職を追われています)

 ジャンヌの物語にはカがある。それは、うむを言わさずひとの心を捉え、心ならずも涙を流させるほどのカなのだ。巧みに話そうと下手に物語ろうと、読み手が若かろうと年をとっていようと、あるいは人生体験をへてどれほど成熟したひとであろうと、実生活に鍛えられたひとであろうと、とにかく彼女には泣かされることになる。男たちよ、泣いたからといって顔を赤らめることはない。男であることを隠すことはない。この場合、涙のもとになったものは美しいのだから。どんなひとが死んだばかりだといったところで、いかなる個人的な出来事であれ、美しく品位のある心をこれ以上に感動させるに価するものはない。

 真理にも、信仰にもまた祖国にも、それに殉じた人々がいた。しかも数多くいた。英雄たちはそれぞれ何かに献身したし、聖人たちにはそれぞれの〈受難〉があった。世間は英雄を崇拝し、教会は聖人に祈った。しかし、この場合は話は別である。列聖もされない、礼拝もない、祭壇もない。誰も彼女には祈らなかった。しかし、ひとは涙を流すのだ。
ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』森井真訳 中公文庫1987

ジャンヌ・ダルクの伝記を読めば、「うら若き処女の乙女が、甲冑に身を包み、男の先頭に立って戦った」というような単純な話ではないことがよく分かります。それはイギリスとフランスの領土を巡る英仏百年戦争の話であると共に、フランスの貴族同士の領地の奪い合い、だまし合いの歴史であり、魔女狩りの様相を示す異端審問を巡るキリスト教の醜く暗い側面をあぶり出す、教会や信仰を巡る物語でもあるという、すさまじい内容を持った事件であり出来事であったからです。(それはある意味で、日本の幕末が、幕府と朝廷のそれぞれが、それぞれの内部において、尊皇と攘夷の両方を考えを抱え、駆け引きや陰謀を巡らし戦った歴史にも似ていて、歴史はそんな簡単に敵味方が分かれて争うようなものにはなっていないのです。)

 そうしたことを踏まえると、同志社の中で八重を「ジャンヌ・ダルク」に重ねてみたいという人がいるのなら、彼女が13歳の時に聴いたという「神の声」の問題をどう受け止めるのか、彼女の信仰の内実をきっと考えざるを得なくなるはずですし、そういう問いかけを抜きに「幕末のジャンヌ・ダルク」という比喩を使うのは、ジャンヌ・ダルクを誤解し、八重を誤解することにつながると私には思われます。

ジャンヌ・ダルクのことを知りたい人のためには、次の文献があります。
まずはこの新書から読まれると良いでしょう。次はミシュレ。
高山一彦『ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける「聖女」』岩波新書、2005
ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』森井真・田代葆訳、<中公文庫>、1987年

あとは興味しだいです。
アンドレ・ボシュア 『ジャンヌ・ダルク』新倉俊一訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1969
高山一彦『ジャンヌ・ダルクの神話』 講談社現代新書、1982
堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』清水書院、1984
堀越孝一 『ジャンヌ=ダルク』 朝日新聞社、1991
レジーヌ・ペルヌー 『ジャンヌ・ダルク』福本直之訳、東京書籍、1992
レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルクの実像』 高山一彦訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1995
レジーヌ・ペルヌー『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2002
高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、2002
レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルク復権裁判』高山一彦訳、白水社、2002

 映画では『ジャンヌ・ダルク』(The Messenger: The Story of Joan of Arc)1999年が、フランス・アメリカ合作映画が有名です。リュック・ベッソン監督、ミラ・ジョボヴィッチ主演で、ジャンヌ・ダルクの生まれから処刑までを描いています。レンタルで見られますがR12指定です。 R-12指定映画とは、小学生以下は保護者の人と一緒に見てくださいというものです。